詩を読んで好き勝手いう会 2017年の記録

 《第28回》

カキフライが無いなら来なかった』せきしろ×又吉直樹

 

日時:2017年12月2日(土)

17:30~22:00

場所:浦和

 

面白い。面白いですよ。問題は、そこからなんです。

「あるある」以上にならない、という感じ。

嫌いではないし、グッとくるものもたくさんあるのですが、文字で書かれていること以上に展開ができない。

詩はある意味言葉の芸術ではあるが、言葉がすべて芸術であるわけではない。では、芸術たる言葉とは何か?

現代詩が突端化した純粋芸術(というものがあるとしたら)的な原理的な方向を目指すのであるならば、これはある意味真逆の極でしょう。

ここを滑り落ちると、言葉は詩ではなくなる。

自由律俳句というのはむつかしいですね。

放哉の名句「咳をしても一人」だって、「一人で咳をした」では悲惨ですからね。

 井泉水も言っていますね、自由律俳句が詩としてあるための基準は、「自分が詩だと思えること」 なのですから。

 《第27回》

『渡辺玄映英詩集』渡辺玄映

 

日時:2017年10月28日(土)

17:30~22:00

場所:浦和

 

現代詩が求めているシーンというのは、いったいどんな地平なんでしょう。そんなことを考えさせられる会でした。

著者がこの世界に生きる私たちの不確実性と複数性(現代は個人を複数に分離する)を読み込んでいます。そうです、それは間違いのない事実なのですが、作者の閉じた世界性は一向に外部に開かれない。

もちろんそれは、大きな物語の不在ということではない。そんなことは説明の必要もないいほどに、自明に事実だ。

その現実の中で、持ち得るのは滅びゆく自分の小さな物語に過ぎない。しかしそれは、閉ざされた部屋の中でのみ愛着が可能なものに過ぎず、到底、物語の普遍化には寄与しない。

言葉を、世界を、壊していく実験なんだろうなと、思う。

ただ、その言葉は、誰に向かって開かれているのだろう?

崇める者がいなくなった時、神は果たして神たりえるのだろうか?

 

 

 《第26回》

『暮尾淳詩集』暮尾淳

 

日時:2017年9月23日(土)

18:30~22:30

場所:与野

 

酔っぱらいですね。この人は。

クラシックな酒飲みと私たちは、似た者同士。相性が良いのかも。

よれよれの酒飲みをスタイルとして気取った初期、本物のよれよれの酒飲みになった中期、加齢とともに深酒できなくなって往時をしのぶ後期、そんな詩人ではないでしょうか?

 

ストーリーをはぐらかし続け、最後は酒を飲んで終わる、という一連のパターンがいつも同じではないかという意見もありましたが、あらためて酔っぱらって読みなおしてみると印象が変わるという声も(読書会はいつも居酒屋開催です)。

呑んだくれの詩は、呑んだくれて味わうのが本当なのかもしれませんね。

 

詩ではありませんが、「オリオンや駐輪場で吐く男」という句は秀逸ですね。

なんとうらぶれた美しい風景であることか。

 

あとは、飲み屋のポスターの後ろ向きのヌードの女性のお尻への熱いメッセージも素晴らしい。店の奥のポスター眺めながら、一人でもう、かなり深酒してるんだなあ、と。

 

私(池上)個人的には、「秋の日の午後」のラストが最高!

退院して、酒は控えようと決意して、日常の美しさをしみじみ感じていると、鴉の糞が顔にかかる。そんなストーリーの後の最終連がすばらしくそしてかわいい。

 

そのあたりから

しだいに気分は変調を来たし

四時開店の居酒屋に入ると

ゴーギャンのポスターが油まみれで

人はどこから来てどこへ行こうとも

そんなことどうでもよくなり

ビールの次は焼酎だぞ。

 

 《第25回》

『蜂飼耳詩集』蜂飼耳

 

日時:2017年7月9日(日)

18:30~22:30

場所:浦和

 

我々、現代詩のあの感じ、苦手なのかも・・・。
でも、フレーズの面白さとか、言葉の選びかとか、面白かった。
蛤ロボットという詩の「嚙まれたあとがよくない」
ほらあなという詩の「やきとりやさんを やりたいな」
嫌いじゃないです。

現代詩のフレームの問題についても、いろいろ話しました。

現代詩は、言葉のストイックな修行場のようだ。

もっと開かれていいのではないかなと思う次第。

「なにを」と「いかに」の問題の間を飛び越えるような。

 《第24回》

『死んでしまう系のぼくらに』最果タヒ

 

日時:2017年2月25日(土)

18:30~22:30

場所:大宮

 

この詩の感覚は、きっと今を生きる若者の中には、どこか共感できるものがあるのでしょう。

近代は、ほかの誰とも違う「自分らしい」自分、独自性のある自分が求められます。
しかし実際の自分は、とるに足らない、どうしようもない自分でしかない。
このアンビバレンツの中に、まるでダブルバインドのように引き裂かれているのが今の私たちなのかもしれません。

しかし難しいのは、じゃあ頑張ればいいじゃん、とか、心が弱いんだよ、とかいった示唆は、誠実に答えるならばすべて無化されてしまうということです。
世代が違うとか立場が違うとか言った事もすべて含めて、この詩に対する意見は、すべてブーメランのように自分に帰ってくる。
読書会の最中、そういう意味での沈黙がおとずれること、たびたび。

詩人が死を語るとき、普通に考えればそれは、本当の死とそれをめぐる質感なのだが、どうもこの詩は違うらしい。
作者が「死」をいくら語っても、作者はリアルな死に向き合っていない。自傷行為すらないだろう、という意見。
そのようなものとして、「死」のイメージがあるならば、存在とは何と希薄であることか。

 《第23回》

『山之口獏詩文集』山之口獏

 

日時:2017年1月29日(日)

18:30~22:30

場所:浦和

 

この人の心優しい詩は、しみじみいいものです。
やさしい人だったんでしょうね。
そして今回は、結構好きな詩が分かれました。
そして、「沖縄よどこへ行く」とか「鮪に鰯」、「鼻のある結論」などといったよく知られた詩ではない詩に、興味が集中しました。
「喪のある風景」「座布団」「傘」「数学」「妹へおくる手紙」「大儀」あたりが人気でした。
が、ひょっとすると、山之口獏の本質的なのは、「生きる先々」かもしれません。
 子供が出来たらまたひとつ
 子供の出来た詩をひとつ
というのが、やさしくていいじゃないですか。